2014年12月

教育を受ける権利

教育

 今日は、全校の諸君に話をする今年最後の機会です。
 私たちにとって当たり前になっている「学校へ通う」ということについて改めて考えさせられることがありました。
それは、17歳にしてノーベル平和賞を受賞した 「マララ・ユスフザイさん」の言葉です。
 一部を紹介しておきましょう。

 親愛なる少年少女のみなさん、私たちはすべての子どもたちの明るい未来のために、学校と教育を求めます。私たちは、「平和」と「すべての人に教育を」という目的地に到達するための旅を続けます。誰にも私たちを止めることはできません。
 今日、私は自分の声をあげているわけではなく、6600万人の女の子の声を代弁しているのです。
 私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れてはいけません。何百万人もの子どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。
 1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。ありがとうございました。

 この言葉の背景には、私たちの知らない現実があります。
 それは、お父さんの 「ジアウディン・ユスフザイさん」の言葉に象徴されています。

 女の子は5歳になると、就学すべき年齢なのに、家にいなければいけません。彼女の兄弟達は学校に行けるのにです。彼女が12歳になるまでは、どうにか良い生活を送ります。楽しいことができます。道端で友達と一緒に遊んだり、一人で外を歩いたりできるのです。蝶々みたいに自由です。ところが13歳になると、女性は男性のつきそいなしに出かけることを禁じられます。 家の中に閉じ込められるのです。もはや自由を謳歌できる一個人ではなくなります。そして物静かで慎ましく、とても従順であることを求められるのです。

 学校へ通うことが、日本をはじめ、多くの先進国では当たり前のことかもしれませんが、貧しい国々や家父長社会、部族社会では就学とは女の子にとって一大事なのです。
 学校に通えるということは、自分のアイデンティティや名前を認めてもらえること、学校に通えるということは、将来のために 自分の可能性を探せる夢や希望をかなえる場所に足を踏み入れることなのですが、それが許されない社会に生きている人が数多く存在するのです。

 学校へ通うことは、世界全体を眺めると、けっして当たり前のことではないということを考えるならば、「教育を受ける権利」だけに甘えていることはできないのです。学校通うこと以上に真剣に学ぶことをもう一度しっかりと見つめ直して欲しいと願うのです。
 そして、社会のために真面目にきちんとものごとを見つめられる人、考えられる人になって欲しい思います。

第九に

雑感

 毎年、この時期になると、いろいろなところでプロ・アマを問わず、「ベートーベン第九演奏会」が開催される。クラシック音楽の歴史を変えた革命であるとも言われる大曲、もちろん第四楽章にはシラーの詩をもとにした「歓喜に寄す」の合唱が控えている。全楽章で70分余、まさにスケールの大きさでは群を抜いている。(CDの収録時間が74分なのは、第九が全曲収まるように決められたことは有名である。)
 ステージ上に、80名規模のフルオーケストラ、4名のソリスト、何よりも100名を超える合唱団が並ぶ様は、まさに圧巻である。
 第九の演奏会を市民レベルで開催することは、その街の文化レベルのバロメーターであるとも捉えられている。というのも、まず100名の合唱団員が構成できなければならない。しかも、ドイツ語で歌う以上10数回の練習に参加する意欲と熱さを持っていなくてはならない。また、練習の指導をする合唱指揮とパートリーダー、練習時のピアニスト5、6名といった人的な確保がなされなければならない。
 マネージメントの面でも規模は大きい。オーケストラと指揮者、4名のソリストのギャラ、移動費用や宿泊費、プログラム・チケット・ポスターを含めた印刷関係の費用等の総額は 700~800万円近くになる。いざとなったらそれを支える行政の理解と覚悟も求められる。
 何度か運営に携わり、それを知っているだけに、各地で開催される市民レベルの第九演奏会には敬意を払っている。
    (私の一番好きな一節・・・それは緊張感のあるpではじまる・・・)
Ihr stürzt nieder, Millionen?
Ahnest du den Schöpfer, Welt?
Such’ ihn überm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.
ひれ伏しているか? いく百万の人々よ。 創造主を感じているか? 世界よ。星空のかなたに、主を求めよ。星々のかなたに必ず主は住み給う。
 第九シンフォニーは、そんな俗な苦労は気にも留めず悠々と流れ、苦労以上のものを残してくれるのは間違いない。今年は、じっくりと聴く機会をつくりたいものである。

生涯生活時間というもの

雑感

生涯生活時間(24h×365日*80=700,000)・・・・・・・・・・・・・・・・70万時間
【内訳】 
①生涯必需時間(10h*365*80=29,200) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30万時間
②仕事時間(20歳~80歳)(10h*250*40=100,000) ・・・・・・・・10万時間
③教育時間(小学生~20歳)(7h*210*14=20,580)・・・・・・・・ 2万時間
④余暇時間(70-(①+②+③)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28万時間

ついでに、60歳~80歳の余暇時間は
24h-10h(生活必需時間)×365×20年=102,200 h 10万時間
となるわけです。

水辺へ

教育

You can lead a horse to water, but you can’t make him drink.
「馬を水辺まで連れて行くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない」

このことわざの意味するところは、当然「人にチャンスを与えることはできるが、それを生かすのは本人次第である。」また、「本人の希望するように周りの人々が環境は整えてあげられるけれども、その環境を生かすも殺すも本人しだいだ。」ということになる。
 さあ、ここで考える。私たちの使命がどこにどのように関わっているのかと・・・・「水辺まで連れて行く」の意味するところは何なのだろうか? それが、「学校」というハードを準備し、環境を整えることであるならば、十分にとはいかないまでも、使命の大半は果たしているだろう。しかし、それが「チャンスを与えること」であり、その個の持っているいろいろな能力を引き出すことであるならば、充分だと胸を張って言い切ることができるだろうか?
 我々の使命がまだ道半ばであることを常に意識していかなければならないのだろう。
 ただ、忘れてはならないのは、私たちの目指すのは、「自ら水辺を求め、そこに至る道を手探りでも進もうとする生徒である。」ということである。

情けない話 何故、そんなに慌てるのか?

教育

 市内の1中学校と校区小学校の一体型の小中一貫校設立、平成30年には開校予定という記事が先日の朝刊に掲載された。よく読むと、福井大学の松木教授を中心とする検討委員会が教育委員会の諮問に対する答申を提出したという内容であるのだが。校長会にも市内職員にも何の説明もない中での報道、私自身が「いつの間にそこまで話が・・・・」と思ったくらいなのだから、一般市民にとってみれば寝耳に水といった感は拭えない話に違いない。今、小中連携や小中一貫が、法律的にも、社会的にも全国的な話題になっているのは分かっているし、そのこと自体への意見は別の機会に委ねるとして、どうしていつもこうなのかと感じざるを得ない。小さな街敦賀の教育のことが、どうして現場に届く前に報道機関を通して耳に入ってくるのだろう。4校といえば、市内19校の1/5の学校が関わるニュースである。しかも諮問に対する答申をどうしてそれほど派手にアピールする必要があるのだろうか。公教育にとって公平性と平等性は保証されなければならないものであり、それに対する市民からの声に対しては、我々みんなが同じ方向で言葉を返さなければならない重要案件でもある。ましてや、4・3・2制をはじめ、ハードの面でもソフトの面でも、制度的にも物理的にも人事の面でも、まだまだ多くのハードルを抱えている事案である。市民から尋ねられたとき、教育関係者全員が、同じ方向で言葉を返していく必要がある事案である。
 せめて、それらを審議する方向性と方法だけでも決定し、周知した上で、報道にのせてもらいたかったという思いである。あまりにも早計である。
 12月市議会の中で、市民の疑問をぶつける質疑がなされることに期待するしかないのかもしれない。情けない話である。