2011年10月

生徒指導と魚釣り

教育

 先日、ある方からこんなお話を伺いました。「生徒指導は釣りに似ている。魚がかかっ
たとき、力任せに巻き上げようとしても糸は切られてしまう。相手が力任せにもがいたと
きには、ある程度糸を緩めることも大切。ただ緩めすぎたら、魚はとんでもないところへ
潜り込んで糸は切れてしまう。巻き上げたり緩めたり・・・これが難しくもあり、醍醐味な
のだ。」・・・このお話をなるほどと受け入れながら、何よりも糸を強くしていくことの大
切さを思います。しかもその糸は、家庭と地域と学校という3種類の繊維で紡がれている
のかも知れません。
 さあ、11月です。3年生にとってはしっかりと自分自身と向き合う日。全校で、全職
員で3学年を支えましょう。

 この10月は孫の誕生と義母の逝去という大きな出来事に出逢い、命の尊厳を改めて感じました。

後半戦に(啓発録から)

学校

 中体連新人戦ありがとうございました。素晴らしい結果を眼にし、先生方の力を再認識
しています。今回の新人戦はそれぞれの課題を見つけることがねらいだったはずです。生
徒たち一人一人が何かをつかんでくれたら、必ず春・夏には一つに形になって表れてくる
ものと思い、楽しみにしています。
 さあ、いよいよ後半戦です。終業式に述べたように「真剣モード」でスタートしたいと
思います。特に3年生にとっては、大きな目標に向かって全力投球です。全員でサポート
していかなくてはなりません。支援をよろしくお願いします。
 どの学年にも、まだまだ幼稚な部分を抱えている生徒が少なくありません。橋本左内
が15歳で著した「啓発録」を思い出さざるを得ません。

稚心を去る(去稚心)・・・・・子どもじみた甘えを脱却せよ。
遊びにばかり熱中し、甘いものをむさぼり食い、毎日怠けて安楽に流れる。それも幼い子供のうちは強いて責めるほどのこともないが、学を志す十三、四にもなって、そんな気持ちが微塵でも残っていたなら、何をしても決して上達することはない。
(まして天下一流の大人物になることなど程遠い。)
交友を択ぶ(択交友)・・・・・ 自分の向上につながる友を択(えら)べ。
 自分と交際してくれる友人は、皆大切にしなければならない。しかし、飲み食いや歓楽を共にするために付き合い、馴れ合うことはよいことではない。学問の講究、武芸の練習、志や精神の研究などの上で交わりを深めるべきである。堕落につながる交際を求める友人がいたら、正しい方向へ導くべきである。
 また、自分の過ちを遠慮なく指摘してくれる友は、時に厄介(やっかい)なものではあるが、とても大切だ。
 厳格で意志が強く正しい。温和で人情厚く誠実である。勇気があって果断である。才知が冴え渡っている。小事にとらわれず度量が広い。この五点を目安に友人を見定めればよい。小人は、他人にへつらい媚(こ)び、小利口で落ち着きがなく、軽々しくいい加減なものであるが、すぐに心安くなれるので、世間では人柄がほめられたりするものである。
(しかし、聖賢を目指そうと志す者は、彼らとは違った厳しい目を持たねばならない。)
 この内容を私たちの言葉で伝えていくことが求められます。

脚下照顧 1学期終業式に

子どもたちへ

 1学期が終了し、この6ヶ月間の皆さんの成長ぶりを色々な機会に目にしてきました。
 たくましく、人として大きく成長しているのを感じます。
 ただ一方で、まだ幼さが残っている人がはっきりしてきたのも事実です。
幼さとは何なのか? 自分のことしか考えられない生き方なのだと思います。
大きな声や奇声が聞こえたり、授業中勝手な言動したりという、自分の行動が他の人や先生方にどれだけ迷惑をかけているのか分からない人たちがいるのが残念でもあります。

脚下照顧という言葉があります。
自分の足元をよくよく見よという意。もともと禅の語で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。また、足元に気をつけよの意味で、身近なことに気をつけるべきことをいいます。
 もっと言うならば、自分の足下(あしもと)を顧(かえり)みるとは「我が身」や「我が心」を振り返れ、自分が今どうゆう立場にいるか、よく見極めて事に当たれと言うことです。
 つまり、他人を批判したり、論じたりするよりも、まずは自分の足下を見つめること、自分を顧みることを忘れぬようにと言う意味です。
 相手の立場に立ってものを考えるということでもあります。

1学期が終わるという大きな節目を、自分をしっかりと見つめ直す機会にしてほしいと思います。そして、2学期新しい気持ちでスタートできる自分を自分の力で作り出していきましょう。