どこまでを視野に入れるのか

雑感

 最近、オンカロ(フィンランド語で「隠し場所」を意味する、世界で唯一の高レベル放射性廃棄物の最終処分場)という地名を何度か耳にし、「100000年後の安全」という映像を観たときの衝撃がよみがえってきます。
 それは、「オンカロの施設の存在を後世に残すかどうか」という建設者たちの真剣な検討でした。すなわち「将来、この施設を掘り返すものがいるのではないか」という不安との闘いであり、その視野は生物にとって安全なレベルまで放射能が下がる10万年後だったのです。
 6万年後に予測されている氷河期を超えて、10万年後に、現在とは異なった“人類”が存在するとして、現在の言語が通じないであろう人々に、これが危険な物質であり、近づいてはいけない施設であることをどうやって伝えるのか。10万年後の“文明”を持った人類にとって、それらは宝物に映るかも知れないし、かつて人類がピラミッドをあばいたように、オンカロを開こうとするかも知れない。そうさせないために、危険性をどうやって伝えるか、「危険だ」「掘るな」「入るな」という標識を立てるか、現代の文字が意味を持つか、絵で表したらどうか、いや、「掘るな」というサインはかえって掘ろうという好奇心をかきたててしまうのではないか、いっそのこと、何のサインを残さないで、忘れ去られるようにした方がいいのではないか
 ・・・・という葛藤の中で、現時点では、「存在」は後世に残していくという方向にあるといいます。
 私たちにとって必要な視野は何年後なのかと考えさせられます。
 少なくとも3年後を見通して生徒に向き合いたいものです。