父のくれた一日

思い

 私にとって、7年前の手術が「命を賭けた手術」であり、人生観を変える大きなものであったことは先日も話しましたが、そこに至る奇跡的な出来事について、書き記しておきたいと思います。
 みなさんの中にも、7年前の父の通夜や葬儀に参列してくださった方が少なくないことと思いますが、あの時の自分は、息をするのも苦しい状態でした。形だけであっても、葬儀の喪主だけは務めたいと無理を通したものの、二日間のすべては義兄に委ね、かすかに覚えているのは、挨拶をさせていただいたことだけです。、病院との往復の中、葬儀を終え、約束通り翌日朝一で受けた検査の結果、病名が分からないまま救急車で県立病院へ搬送されました。
 県立病院に到着し、ストレッチャーで病室に運び込まれようとしていたとき、それまでにない息苦しさを感じました。そのままエコーの検査を受けたわけですが、そのときにも見たエコー画面は忘れられません。心臓の弁がピラピラ、ピラピラと絶え絶えに動いていて、そうこうする内に弁が小さな破片のように吹き飛ばされていく画像が・・・・、弁がちぎれていく姿でした。それと同時に強烈な息苦しさが襲ってきたのは言うまでもありません。目の前が真っ暗になり、耳元で「挿管!」という単語だけが繰り返されていたのをかすかに覚えています。そのまま緊急手術に入り、10時間の手術で奇跡的に命をつなぎました。
 この時のことを振り返った時、もしも、もしも、父がもう一日生きていたら、私の命は無かったのだという現実にぶつかります。そして、私が今あるのは、父が自分の命を一日分私に分けてくれたからなのだということに気づきます。
 私が生きていることができるのは、『父のくれた一日』があったからなのです。
まさに「生かされている自分」を強く感じ、その分まで大事に生きねばと思います。
 人は皆、生かされているのです。だからこそ、大事に生きてほしいと願います。
「生かされている」・・・・私にとって人生のキーワードなのです。