阿吽の呼吸

思い

 先日見かけた光景が心地よい余韻と共に今も心に残っている。
 それは日曜のお昼何気なく入ったそば屋さんでのことだった。私たちの隣に、一組の家族が座った。若い夫婦とベビーカーに寝かされたまだ生後3ヶ月くらいの赤ん坊、そして母親の両親と思われる男女だった。隣のものだからその気はないのだが、自然と雰囲気が伝わってくる。注文した料理を待っている間も、会話の中心はもちろん赤ん坊のことのようで、みんなに大事にされていることが言葉の端々から伝わってくる、ほほえましい家族だった。
 ちょっと長めの時間が過ぎ、やっと料理が到着。赤ん坊が寝ている内に食べてしまおうとみんなが箸をとった瞬間。それまで寝ていた赤ん坊が愚図りだした。箸を片手に、ベビーカーをちょっと動かしてあやしはするものの、ふゃふゃした声は、やがて泣き声に変わっていった。どう見てもだっこをせがんでいる。近くにいた私たちもが、「赤ん坊が抱き上げてあやしてくれることをせがんでいること」と「もうあと少し静かに寝ていてくれたら、みんな食べれただろうに・・」と子どもを育てたことのある者なら誰もが経験している「さあどうするタイム」に気の毒感を抱いた。しかし、そのときの若いお母さんの言葉に心が動かされた。
 その母親は、すっと赤ん坊を抱き上げて、一旦静かにさせた後、左手に赤ん坊を抱きかかえるとその子をのぞき込んでこう言った「私、片手でも平気で食べれるからねー。大丈夫だよー。」そして、普通に食事を始めた。それでも麺類は何とかなっても一緒についてきたご飯ものはちょっと片手で厳しいのは誰が見ても明らかだった。この若い母親の言葉。それは赤ん坊に向けて語りかけた言葉の体をなしてはいるが、十分すぎるほど周りに気を配った言葉だったのは間違いない。むずかる子への愚痴っぽさは微塵もないのはもちろんだが、その言葉に誰もがつい笑顔を漏らさずにはいられないほど、力みのない自然な明るい響きだった。
 その間、若い父親はというと、何も語らず、慌てたそぶりを見せず、しかし無駄のない流れでごく普通に食事を進めた。そして、自分の食事が一段落すると、これまた自然に赤ん坊を母親から自分の手に移し抱いてあやした。そのタイミングも見事だったし、それにちらっと返した母親の柔らかな笑顔もよかった。
 些細な出来事だった。しかし、この一連の若い夫婦の言葉と動きが、とても和やかな中、押しつけるでもなく、無理のない自然な流れの中で行われたことがとても印象に残っている。
 まさに「阿吽(あうん)の呼吸」と言うのだろう。簡単そうでなかなかできない。いい夫婦であり、いい両親だと感じた。
 いい勉強をさせてもらい、とても嬉しい気がした。