「大丈夫ですよ」 

私の考え 雑感

「大丈夫ですよ」という言葉の大切さ                                     金沢大学卒業教職員同人誌「兼六会」への投稿文

平成27年4月26日の統一地方選は、私にとって忘れられない日となりました。
出馬を決断するに至るドラマは、ここでは割愛させていただくことにしても、3月31日に無事に教職生活に定年退職という形でピリオドを打ち、実質的な選挙準備は3週間という状態での市議会への立候補でした。その間の不安と焦りは、とてつもなく大きなものでした。強烈なプレッシャーに押しつぶされることなく選挙運動に突入できたのは、家族・親族はもとより、連合福井と教職員組合の全面的な支援があったからなのは間違いありません。
 どうして、政治の世界をセカンドステージに選んだのかと、よく尋ねられます。もちろんいくつかの誘因はあるのですが、私自身の根っこに次のようなことがあります。
 私は、7年前に大きな手術をしました。まさに「命を賭けた手術」で奇跡的に命をつなぎました。その後の3ヶ月間の入院生活は、苦しい時間でもあり、自分自身多くのことを考え、学ぶ時間でもありました。そのときに二つの大切なことを学びました。
 まず一つは、当たり前と思っていることは当たり前ではないということです。どんなに息を吸っても空気(酸素)が入ってこないという苦しさから、普段「あたりまえ」と思っている生活の一つ一つ、出来事の一つ一つがとても価値あること、価値ある時間だと感じました。
 もう一つは「大丈夫ですよ」という言葉です。私自身もよく口にする言葉「がんばれ!」は、とても力を与える言葉です。でも、本当にギリギリの状態に置かれた人間にとって、それ以上の言葉があるということを知りました。それは、家族や看護師さんから受け取った「大丈夫ですよ。」「いいんですよ。」という言葉とそれを具現化する体制でした。優しい言葉の裏に、「その人のために、その人のことを支えていくのだという強い意志」を感じ、大きな勇気をいただいたのです。
 そして、この時のことを振り返った時、もう一つの大きな現実に出会います。それは、「命を賭けた手術」の日が、父の葬儀の翌日であったということです。
あの時、息をするのも苦しい状態で、一日も早い県立病院への転院を勧められながらも、父の最期を見届けなければならないという思いで転院を拒んでいました。市立病院のベッドとの往復で、何もできないまま葬儀を終え、その翌日に救急車で県立病院へ搬送していただいたのですが、到着するとすぐに強烈な息苦しさに襲われ、目の前が真っ暗になり、そのまま緊急手術。10時間の手術で奇跡的に命をつなぎました。病名は「感染性心内膜炎」による心不全、僧房弁の置換手術でした。心臓全体がどっぷりと膿に覆われていたそうです。
 一日でも長く生きて欲しいと願ってはいたものの、もしも、父がもう一日生きていたら、葬儀が一日後だったならば私の命は無かったのです。私が今生きているのは、父が自分の命を一日分私に分けてくれたからなのだということに気づかされました。まさに、「父のくれた一日」なのです。「生かされている自分」を強く感じざるを得ません。
 人は皆、生かされているのです。その分大事に生きねばと思います。だからこそ、少しでも自分の納得のいく生き方、悔いのない生き方をしたいと考えるのです。
 だれもが大事に生きて欲しいと願います。「大丈夫」という社会で生きていくことができなければなりません。そんな社会を求め、やれることを精一杯やりたいと思うのです。