2014年5月

責任

雑感

 最近、懸念していることがあります。それは、いろいろな教科書に存命である著名人の生き方や写真が掲載されていることです。昔、道徳の副読本には、すばらしい生涯を貫いて生涯を閉じた方の生き方しか取り上げられていなかったようにも思います。
 人は弱いものなのです。誘惑や欲望に揺れるものなのでしょう。だからこそ、名の通った人には、自分の意識の外で、「責任」というものがついてくるのだと思います。
 Chage&Aska の歌は好きです。その歌の価値は変わりませんが、喉の奥に小さな骨が引っかかっていて、思いっきり飲み込めないようなもどかしさが生まれたのが残念でたまりません。

一人称複数の価値 (授業参観週間を終えて)

授業,学習・学びに

 教室へ参観に訪れたときに、まず注目するのは教室後部の様子と生徒の姿勢です。(普段の学級担任の経営が現れている一つです。)
 次に、黒板に眼がいきます。課題は何だろう?・・・・やはり、丁寧な筆圧を感じる見やすい字で、行動目標(「~しよう」につながる言葉)として書かれていると分かりやすいと感じます。もちろんしっかりした黄色い長方形で囲まれていることは不可欠です。そして、板書の内容です。思いついたことを適当に黒板に書いているのでは板書とは言えません。左半分には・・、右には・・、そしてここは後のためにスペースをとって・・・・・と考えるのが板書でしょう。それがうまくいくということは、1時間の学習内容や指導ポイントが組み立てられているという証でもあります。(逆は必ずしも真ならずですが・・・)とにかく計画的な板書かどうか?
 その間、いろんな声が届いてきます。きちんとした生徒の発言を期待するのですが、そんな場面に出会うことが少ないのはとても残念です。(・・・これから、ほどよい緊張感の中で、学びあう姿がさらに形になっていることを楽しみにしています。教師の存在しか感じられない静かなだけの授業は寂しいものです。
残念なのは、冗漫な授業です。1時間の中に笑いがあるのはよいことでしょう。ただし、1時間が常に漫才みたいでは大変です。(その場合のツッコミは教師、ボケが生徒になることが多いですが・・・)生徒は楽しかったと感じるのかもしれません。でも、迷惑なのはその学級に入っている他の教科担任、そして、じっくりと学びたいと考えている生徒なのでしょう。
さりげなく数名の生徒のノートを眺めます。・・・指導が入っているノートに出逢うと嬉しくなります。
言葉は大切です。・・・一人称複数で語りかけること、(「私たちが今考えようとしているのは・・・」「私たちが解決しようしているのは・・」等)は、授業観をワンランクアップさせる大切な要素です。実践してください。

親子のフェスティバル

雑感

 昨日、快晴の空の元に開催された「親子のフェスティバル」、36の会員団体と6つの協力団体が参画している姿とそれまでかけてきたエネルギーを考えると、天候に恵まれたことを心から嬉しく感じた一日でした。
 籠正義会長の開会式の挨拶の中にあった「この催しのコンセプトは単純でシンプル。それは『子供たちの笑顔を見たいから』なのです。」という言葉は分かりやすく印象深いものでした。
今回が32回であると知って、第1回当時(気比中で吹奏楽部顧問でした)のことが思い出されました。
 そのころの親子フェスの会場は松原の浜グラウンド、5月3日~5日で雨天順延でした。 フェスのメインの一つはなんと言っても市内4中学校吹奏楽部合同でのドリル演奏。それを完成させるためにフォーメーションを考えたり、数回の合同練習や楽器運搬、会場のポイント打ちなど、大変な思いの中にそれ以上の成果を手探りで求めていました。もちろんゴールデンウィークは親子フェス中心でした。
 今も、それぞれの団体が抱えるエネルギーの大きさは変わらないのでしょうが、その価値を確かめる時がきているのを感じます。特に、「親子フェス」と「教育フェア」のコンセプトを明確にしていかなければならないように感じます。