浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

子どもたちへ

 さあ、今日で平成25年度の1学期が終わります。毎年10月11日という日はやってきますが、みなさんにとって、この平成25年の今日は一度きりです。平成25年と言うよりも、中学校3年生の10月11日は一度きりなのです。
 今日は、一つの俳句を紹介します。
それは、江戸時代の俳人滝瓢水(たき ひょうすい)という人の俳句です。
それは、こんな句です

 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな 滝 瓢水(たき ひょうすい)
 作者(滝瓢水)は、そんな海女の姿から、何を感じたのだろう。

是非、家の方とも話し合ってみてください。
 2学期の始業式に、私の考えは伝えたいと思います。
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さて、一学期の終業式で、皆さんに出した宿題はどうでしたか?

 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな 滝瓢水(たき ひょうすい)
 作者 滝瓢水は、そんな海女の姿から、何を感じたのだろう。

正解があるわけではないでしょうし、受け止め方は、それぞれ違っているに違いありません。ここでは、私なりの思いを伝えたいと思います。

 海女は海中に潜るのが仕事だから、どうせ海に入れば濡れてしまう。しかし、海女の心の中にあったのは、「どうせ」ではなく、「だからこそ」浜までは濡れずに行きたい、という思いだったのです。

 「だからこそ」のその背景にあるのは、身体を冷やしたくないという自分を愛おしむ思いだったのかもしれません。また、海女という仕事への敬意だったのかもしれません。しかし、それ以上に思うのは、「その時々を大切に生きようとする姿」です。しかもそれは、人としての本能であるように感じます。
人は、いろいろな困難にぶつかったとき、自分の不都合にぶつかったとき、また思い通りにならなかったとき、「どうせ」という言葉が心の中に広がります。それを「だからこそ」と考えていくことの大切さは、皆さんの毎日の生活にも、幾度となくあるはずです。
 そしてみなさんもまた、「どうせ」ではなく、「だからこそ」という生き方を可能にする「人としてその時々を大切に生きる」という本能と強さを持っているのだということを忘れないでください。

 そして、もう一つ大切なことがあります。それは滝瓢水という作者の感性です。
 海女の姿を眺めたとしても、「どうせぬれてしまうのに馬鹿な人だ」とは思わなかった。それどころか、海女の「生きる姿勢」に感銘をうけたのでしょう。人のそんな姿をしっかりと見つめることができる心の有り様こそがみなさんがもっとも学ばなければならないものなのだと思います。

 さあ、今日から始まる平成25年度の2学期。
新たな節目であるこのときは、ここにいる全ての人に与えられたチャンスです。
それを生かすか生かさないか、また生かせるか生かせないか・・・・・・私たちにとって大きな分かれ道なのかもしれません。
 みなさんの活躍を期待しています。