2013年10月

幹を太くする

雑感

 先週、第64回全日本中学校長会研究協議会(全日中研究大会)が福井で開催されました。前回の福井大会は、1959年(54年前)のことですから、開催年に巡り会ったことに感謝すべきなのだろうと励まし合いながらも、74名で、2,000名強が参加する大会を準備するのは結構大変なことでした。
 その大会の締めくくりは、大和田伸也氏の講演でした。
 ご自身が初監督をされた映画「恐竜を掘ろう」への思い入れと制作までの苦労を中心に進められた講演でした。
 役者として幅広い活動を求める氏でしたが、NHKドラマ「藍より青く」でデビューから以降、数年経っても、誠実な好青年の役柄から抜け出せずにいたそうです。そんな氏が、悩んだ挙げ句、偶然共演した大先輩に尋ねます。「一本の幹がありつつも、そこから伸びたいろいろな枝葉の活動に広げたいのだが、どうしたらよいのでしょう。」と
 その時に、大先輩から返ってきた言葉がとても印象的で、さらに歩みを進めるエネルギーになったそうです。
 それは、「それならば、その幹をもっともっと太い幹にすれば、枝葉も区別がなくなるんじゃないか・・・・・・・」というものだったそうです。
 その直後に出逢ったのが、誠実でありながらも破天荒でやんちゃな大人、水戸黄門の格(カク)さんの役柄だったとのことでした。
その大先輩というのは、「君よ憤怒の川を渡れ」で共演した高倉健氏だったそうです。
 たしかに、「自分の幹を太くする。」のは大切なことなのだと思います。

 まだまだ未熟な自分です。

我、いかに生きんや

雑感

「・・パンマンー!」・・・私の大きな楽しみである「孫との買い物」。そのときに立ち寄るスーパーのケーキ屋さんで、孫は真っ先にこう声を掛ける。もちろん、その声の先にあるのは「アンパンマン」のぬいぐるみ。
2歳の幼児をそれだけ引きつけるキャラクター。○(球)ばっかりで出来上がっている顔は描きやすくて親しみがあるのはもちろんなのだが、そこから伝わってくる優しさが大きな力なのだろう。
 武器を持たずに戦い、飢えた人に自分の顔を食べさせ、身を削って人を救うという生き方。しかも、ジャムおじさんによって、その自己犠牲は回復が保障されているのもホットする。
 やなせたかし氏自身の戦争体験とその後の飢餓体験が背景にあるとのことだが、「 人はなんのために生まれて 何をして生きるのか 」という、歌詞の中にこめられたメッセージ。

 子どもたちには、まだ難しすぎる問いかけなのかもしれないけれど、それは大切なものなのだと感じるには十分だろう。
『我、我に問う、「我、いかに生きんや。」』 常に自問自答していきたい問いかけである。

浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

子どもたちへ

 さあ、今日で平成25年度の1学期が終わります。毎年10月11日という日はやってきますが、みなさんにとって、この平成25年の今日は一度きりです。平成25年と言うよりも、中学校3年生の10月11日は一度きりなのです。
 今日は、一つの俳句を紹介します。
それは、江戸時代の俳人滝瓢水(たき ひょうすい)という人の俳句です。
それは、こんな句です

 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな 滝 瓢水(たき ひょうすい)
 作者(滝瓢水)は、そんな海女の姿から、何を感じたのだろう。

是非、家の方とも話し合ってみてください。
 2学期の始業式に、私の考えは伝えたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、一学期の終業式で、皆さんに出した宿題はどうでしたか?

 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな 滝瓢水(たき ひょうすい)
 作者 滝瓢水は、そんな海女の姿から、何を感じたのだろう。

正解があるわけではないでしょうし、受け止め方は、それぞれ違っているに違いありません。ここでは、私なりの思いを伝えたいと思います。

 海女は海中に潜るのが仕事だから、どうせ海に入れば濡れてしまう。しかし、海女の心の中にあったのは、「どうせ」ではなく、「だからこそ」浜までは濡れずに行きたい、という思いだったのです。

 「だからこそ」のその背景にあるのは、身体を冷やしたくないという自分を愛おしむ思いだったのかもしれません。また、海女という仕事への敬意だったのかもしれません。しかし、それ以上に思うのは、「その時々を大切に生きようとする姿」です。しかもそれは、人としての本能であるように感じます。
人は、いろいろな困難にぶつかったとき、自分の不都合にぶつかったとき、また思い通りにならなかったとき、「どうせ」という言葉が心の中に広がります。それを「だからこそ」と考えていくことの大切さは、皆さんの毎日の生活にも、幾度となくあるはずです。
 そしてみなさんもまた、「どうせ」ではなく、「だからこそ」という生き方を可能にする「人としてその時々を大切に生きる」という本能と強さを持っているのだということを忘れないでください。

 そして、もう一つ大切なことがあります。それは滝瓢水という作者の感性です。
 海女の姿を眺めたとしても、「どうせぬれてしまうのに馬鹿な人だ」とは思わなかった。それどころか、海女の「生きる姿勢」に感銘をうけたのでしょう。人のそんな姿をしっかりと見つめることができる心の有り様こそがみなさんがもっとも学ばなければならないものなのだと思います。

 さあ、今日から始まる平成25年度の2学期。
新たな節目であるこのときは、ここにいる全ての人に与えられたチャンスです。
それを生かすか生かさないか、また生かせるか生かせないか・・・・・・私たちにとって大きな分かれ道なのかもしれません。
 みなさんの活躍を期待しています。

真球というもの

教育

 月曜の夕方、ふと見つけた番組でした。

 パチンコがおもしろいのは、真球がないからだと聞いたことがあります。
真球とは、非の打ち所のない球ということで、一人のレンズ磨き職人とベアリングメーカーとの対決でした。
 組織VS個人、マシンVS職人。ハイレベルの戦いの中で勝利したのはベアリングメーカー。しかし、ある言葉が今でもどこかに引っかかっています。それは、「うちの会社が生産をやめたら世界がひっくり返りますよ。」というものでした。
 自信に満ちたと言うよりも、なんとおごりに満ちた言葉なのかと苛立ちを感じました。
 私たちの職業も同じなのでしょう。
 もちろん真球を作るなどと考えてはいませんし、そうであってはならないと思います。常に、一人一人ひとりの個性を感じて指先で磨き上げる職人の域を目指したいものです。
 さあ後半戦のスタートです。正道を目指すのみです。
いい汗をかきましょう。