2011年11月

希望の力

雑感

 研修会で、玄田有史教授の「希望のチカラ」という演題での講演をお聴きした。
 氏は、キリスト教では「希望」が中心として存在するが、浄土真宗では「今を精一杯生きること」を教え、禅宗では「捨てること(無我の境地)が大切である」と説くように、仏教には「希望」という言葉は登場してこないと前置きしながら、「希望」と「夢」の違いについて述べられた。その中で、「夢」は、無意識のうちにみるもの・沸き上がってくるものであり、生きるための原動力。「希望」は意識的なものであり、枯渇してしまうからこそ持とうとしなければならないものであると述べられた。さらに、希望を『Hope is WISH for Something to Come True by Action.』と定義し、4つの柱(”Wish”=強い意志 “Something”=自分にとっての具体的な何か “Come true”=実現への道筋 “Action”=行動をとっていること)が備わっていれば必ず「希望」は見いだせると訴えられた。
 中学3年間が、自分と向き合い、取捨選択・試行錯誤の中で、自らの4つの柱を探っていく・・・まさに「自分探しの旅」の入口であることを再認識させられた講演であった。
 いよいよ進路決定という大舞台に臨む3年生。一人一人が「希望」をもって進むことができるよう、みなさんの精一杯の支援をお願いします。

瞬間

雑感

 その瞬間に最高の集中力を発揮すること。その時を見据えてあらゆる面から今の自分にできる準備を整えること。このことは生きていくために、社会で生きていくために欠かすことのできない力だと感じます。絶対にその瞬間を逃すことはできない場面だという感覚が今と昔とで大きく変化しているのではないかと感じることがあります。「再生機能・一時停止機能・巻き戻しやリピート機能」が無かった時代、その瞬間を見逃したり聞き逃したりしたものは取り戻すことができなかったはずです。だからこそ、その瞬間を大切にしなければならないという感覚が社会全体にあったのでしょう。幼児のころから、ビデオのポーズボタンを押してトイレに行くことを身につけている子どもたちも少なくないと聞きます。私たちもそんな環境に相当に意識をもって行かなくてはと思います。

隠れたカリキュラム

雑感

 先日から、パブリックマナー、パブリックルールという言葉を度々口にしています。公共の場で見知らぬ人同士が気持ちよく過ごせるために、必要なマナーであり、公共の場を使うときに必要なルールです。それらは、通常「暗黙の了解」としてとらえられ、「隠れたカリキュラム」として存在します。ただ、「暗黙の了解」は、大きな課題を抱えています。それは、「私は了解しない。」「私は逆だと思う。」と主張する者が登場したとき、全体に大きな歪みが生じてくるということです。その歪みは、やがて「どうして私だけが・・・」といった不公平感を生み、どんどん大きくなっていきます。
 法によって縛ることのできる部分もあるのでしょうが、大抵の場合はそうではありません。子どもたち以上に親や周りの大人たちに向きの異なるベクトルを感じるのも確かです。
 方法は唯一「相手の主張をよく聴くこと」そして「自分の思いをよく伝えること」なのでしょうか?根気よく、根気よく・・・