2010年4月

聴くということ №2

授業,学習・学びに

 人の持っている五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)の中で、「視る」「味わう」「触る」は、動きを止めれば自分から受け取りを拒むことができます。「嗅ぐ」についても、息の仕方で感覚を弱めることができ、すぐに疲れて感じなくなることもあります。・・・・・「聴く」はどうでしょう。「聴く」だけは、じっとしていたら、自分の意志では拒むことのできない感覚であるように思います。
 私たちは、もっと「聴く」ことを意識しなければならないし、自分が発する言葉や音にもっと敏感にならなければならない理由がここにありそうな気がします。
 この数週間、廊下に響く「不必要に大きな声」「無駄な声」を耳にすることが多いのがとても残念です。聴くことが辛くなるような荒っぽい言葉も、時には耳に飛び込んできます。どちらも学校には似合わないもので、「聴こえてくることの辛さ」を感じる瞬間です。たとえ、友達同士の会話であったとしても、聴きたくない者にまで届いてしまうという点では「音の暴力」にもなりかねないものです。
 自分の意志とは関係なく受け取らざるを得ないものであるだけに、温かく柔らかな、元気が沸いてくる音や言葉であってほしいと思います。

目に見えないものに対する敬意

雑感

 私たちの周りには、敬意を払わねばならないものが数多くあります。ほとんどの場合、見いだした価値が敬意につながっていきますが、「敬意を払うこと」と「価値を見いだすこと」とは一体ではありません。人である以上、お金(財力)や社会的な地位、衣食住の環境などに価値を見いだすのは当然のことですが、そのような目に見えるもの、手に触れる物にしか価値を見いだせない(=敬意を払えない)生徒が少なくないのを感じます。・・・・・・・目に見えないもの、それは「神」「仏」「歴史」「職業」であり、「苦労」「人間としてのキャリア」「生き方」であり、さらには「愛」「夢」など限りはありません。

 「目に見えないものに対する敬意」は、本来教えられるのものではなく、家庭・地域・学校での生活様式の中で、いろいろな人とのふれあいを通して自然にとりいれられていくべきものなのでしょう。しかし、今の社会の中で、それらを教える必要性を感じているのは私だけではないと思います。

土を育てる

教育

志水宏吉氏の論で言う「学力の樹」の土壌を創り上げるために何が必要か。
土はそのままの状態では見た目はいいが、十分に力をもった土とはならない。

 一旦掘り起こし、中に埋まっていた瓦礫を取り除き、肥料を混ぜ、柔らかく耕すことが大切になるのでしょう。
 学級、学校であったとしても、それは同じなのだと思います。
 こぎ出しの苦しさは、土作りの苦しさなのだと思います。

明るい松陵を支えるもの 平成22年度 入学式の式辞より(抜粋)

子どもたちへ

 新しい息吹を感じ、生きる喜びを感じさせる春。春には「出発」という言葉が似合います。 ・・・(略)・・・
 松陵中学校の生徒玄関前の築山に石碑があります。そこには『明るい松陵』という文字が刻まれています。多くの先輩が共に大事にしてきた『明るい松陵』という言葉は、本校の合い言葉であり、「校訓」とも言えるものであります。
 今日は、校歌の中にも歌われるこの「明るい松陵」の「明るい」を支えるものを3つ示しておきたいと思います。
1つ目に、「自分の存在が認められ、活躍の場があること」です。
 松陵中学校は、一人一人が認められる学校です。それは、一人一人の考え方や個性が大事にされるということでもあります。みなさんには、たくさんの活躍の場が準備されています。自らが得意なこと、頑張りたいことを見つけ、どんどん伸ばしていって下さい。
 ただ、忘れてならないのは、「自分自身の存在が認められる」のと同時に、「仲間の存在を認める」という責任を負うということ。そして、「個性が大事にされる」ということは、自分の都合だけを考えて、好き勝手なことをするということではないということです。
2つ目は、「夢を持っていること」です。
 校舎正面に「二度と来ない今、夢に向かって」という生徒会スローガンが掲げられています。「夢」とは、憧れの象徴であり、目標です。さらに、未来につながる光であり、希望でもあります。苦しさに歩みを止めようとするとき、もう一歩前へ進めるよう「夢」が背中を押してくれるに違いありません。私たちはその実現のために、精一杯の支援していくことを誓います。
 「夢」を見つけ、「夢」を抱き、一緒に進みましょう。
3つ目は、「切磋琢磨して、共に伸びようとする仲間がいること」です。
 ここにいる207名の仲間はもちろんですが、部活動の中でも多くの仲間と出会うことでしょう。仲間の存在は大きな勇気をくれるに違いありません。中学校時代の仲間は、一生の友になることでしょう。共に切磋琢磨し、正しい方向に向かって進む仲間をたくさん作ってほしいと思います。
 中学生という時代、いろんなことで迷い、心揺れる時を迎えることでしょう。失敗したり、悔しさに唇をかみしめることも、たくさんあるに違いありません。でも、それらが全て君たちの成長につながります。まだまだ未熟な十代。失敗や勇み足があって当然です。それを恐れて立ち止まってはなりません。

「人は1人ではない」平成22年度 始業式の講話より

子どもたちへ

 平成22年度の始まりにあたり、改めて確認しておきたいことがあります。
 それは、「一人ではない」ということです。
 「一人ではない」それは、見方によって2つの意味を持っています。
 まずは、辛いとき、哀しいとき、そして苦しいとき、絶対に「独りぼっち」じゃない。ということです。君たちには、必ず一緒に涙してくれる友があり、仲間がいます。そして、家族があり、先生がいます。絶対に「独りぼっち」だと思わないでください。
 もう一つの意味は、学校は「自分だけのものじゃない」ということです。つまり、自分だけがやりたいことをやり、言いたいことを言って満足するということは許されないということです。学級の仲間と、部活動の仲間と、学年や全校の仲間と共にそれぞれの社会を生きていくのが大切なのです。それを学ぶ場が学校なのです。そのためには、周りの仲間を「思いやる」ことが必要です。自分のせいで辛い思いをしている人はいないか、自分の言動で迷惑をこうむっている人はいないかを感じ取る感性が必要となってきます。
 君たちには、そんな感性が育ってきています。
「一人ではない」この言葉を平成22年度のスタートにあたり、君たちに贈りたいと思います。
 平成22年度、また、君たちのいい顔、いい姿いっぱい見せてください。