2008年10月

根っこは一緒~明日のために、今問いかけたい~

思い

(1)毎朝の挨拶にはつらつとした響きのない者や、返事の返せない者が、試合の中で他を圧倒する声を出し続けられるだろうか?

(2)50分の日々の授業に集中できない者が、一日の大会に集中力を持続できるだろうか?

(3)日々の生活の中で緊張感を体験していない者が、試合のプレッシャーに打ち勝つことができるだろうか?

(4)10分間の清掃に汗を流せない人間が、試合の中で動き続けることができるだろうか?

(5)日々の生活で自分を振り返れない者が、試合中のアドバイスに我を取り戻すことができるだろうか?

(6)毎日の生活で友を大切にできない者が、試合の中で仲間と心を一つに闘いきることができるだろうか?

(7)校歌を高らかに歌いきれない者に、優勝旗の下で校歌を歌い上げる資格があるだろうか?

(8)日々の生活で逃げ腰の人間が、試合の中で大逆転を目指すことができるだろうか?

(9)つまらないことで泣き崩れる人間が、敗北の中から次を目指して立ち上がる力を持っているだろうか?

(10)生活の中で心ゆれる行事に感動を得られない者が、試合の素晴らしさに感動できるだろうか?

そして

(11)試合の中の大きなプレッシャーに打ち勝つために
    生活の中で小さなプレッシャーを一つ一つクリアーしていかなければなりません。 
  例えば、不安を振り切って挙手すること。恥ずかしさをはねとばして、あと一歩大きな声で発表すること。自分に甘えず断る勇気を示すことなのでしょう。

(12)接戦を競り勝つために
     自分自身に自信を持つことだと思うのです。「自分たちはやれるはずだ!」という自信は競り合ったときに大きな力となるはずです。その大きな自信を手に入れるためには、小さな自信(自己肯定感)をつけていくことではないでしょうか?
これをやり通すことができた。達成することができた。やってよかったという経験を一つでも多くする事なのだと思います。しかも、それが『みんなと力を合わせて…』だったら、さらに効果的なはずです。

(13)小さなミスを繰り返さないために
     普段の生活の中で、「まあ、いいや。」とごまかすことや、自分に甘えることをなくしていくことだ思います。常に胸を張って生きていこうとする姿勢が、いつの間にか甘さを撃退する力になっていくのではないでしょうか?


俳句会の思い出 平成21年度 まつかぜ

思い

 私の父は、俳句を趣味にし、「沙羅詩」という俳号をもち、宮川史斗先生の主宰する「敦賀俳句会」に所属して活動していた。(晩年は敦賀玉藻俳句会で活動していたようである。)会員は十数名だったろうか、職場も同じ人が多いようであったが、人柄のよい方ばかりで、吟行にも時々ついていったのを覚えている。
 その会では、俳句会が年に数回開催されていた。会員はその日までに作句し、十句ずつ持ち寄ることになっていた。自分が納得できる句を毎月10句創り上げるのは結構大変なことだったのだろう。夜、枕元の電気スタンドの下で、歳時記をめくり鉛筆を片手に句帳に書かれた自分の句を何度も何度も校正している父の姿から、父の頭の隅っこに絶えず「俳句」があったことが幼い私にも伝わってきたものである。
 自分で納得できる句ができあがると、夕食の時などに、俳句のことなど何も分からない私たちに自分の句を披露し、自慢げに「何言うとるか(何を表現しているか)分かるか。」などと言ってきたりもしたものである。
 さて、俳句会は、持ち回りで、メンバーの家を会場にして開催されていた。我が家の当番は大抵12月で、初旬の土曜日に忘年会を兼ねて行われていた。俳句会開催は我が家にとっては、法事と並ぶくらいの一大イベントで、開催日が決まると数日前から段取りに取り掛かる。当時は土曜日も午前中は仕事があったため、最終的に準備に許された時間は土曜の午後の数時間だけだったこともあり、姉と私も加わるのはあたりまえのことだった。
 十数名とはいえ、我が家にその場をつくるのは大仕事だった。その作業は居間と奥の間の二間を仕切っているふすまを外すことから始まり、そこに居座っている家具を別の部屋へ移動させる。リフォームなどを経験した人なら分かると思うが、慣れてしまうと気づかないだけで、家の中にはなさそうでも結構いろんなものが置いてある。居間から他の部屋へ移動させるものだから、いたるところが物置場みたいな状態になった。
 移動の際、特に問題になったのは父のもう一つの趣味でもあった骨董のたぐいであった。普段父が独占していた奥の間と呼ばれた床の間のある6畳の部屋には、所狭しと壺や陶器、そして古いことだけは確かな諸々のものが並んでいた。公務員だった父のことだから、高価なものなどは無かったのだろうが、(もちろん本人にとっての価値や思い入れは別のようだったが・・・)割れ物や重いものが多く、小学生だった姉と私にはとても神経を遣う作業だっのは言うまでもない。山積みにされた本も悩みの種だった。「ホトトギス」や「玉藻」といった俳句雑誌をはじめ、とにかく本に埋もれたようなエリアもあり、大仕事だった。
 場所ができると、机運びである。近くのお寺から低い長机を6脚ほど借りて、運び入れるのだが、これが結構重く、父と二人で3往復。運び終わる頃には汗だくになった。

 会は夕方4時頃から始まった。父たちの句会はおもしろかった。

 ちょっと流れを紹介しておこう。
 まず、締め切り時刻までに、メンバーが自分の創ってきた句の中から、これはと思われるものを10句清書して提出。それを別の人が一句ずつ細い紙に書き込む。
 全員が書き終わると、幹事役(当番役)が全てを回収しよく混ぜて、それぞれの参加者に無作為に10枚(10句)ずつ配る。
 それを受けとったら、各自が手にしている10枚の細紙の句を5句ずつ便せんに書き 写す。つまり、この時点で、誰の創った句なのか筆跡では判別できなくなるというわけだ。子ども心に「なるほど、うまく考えられているなぁ。」と納得したものだ。
 ここまで済むと準備完了。
 さあ句会スタート。いよいよ「選」である。ここからは、1時間ほど静寂の時間が流れる。お茶をすすりながら、たばこの煙の漂う中、整理番号のついた便せんがゆっくりと静かに会員の間を回されていく。
 各自が、20枚ほどの紙に書かれた計100以上の句の中から、自分がよい句だと思 うものを10句書き留めていく。全員が、全ての句に目を通し、納得できる選ができた ら、各自が選んだものを別の紙に清書して提出。
 さあ、ここからが佳境。いよいよ開票である。
 幹事役が「○○選」と選者の名前を告げた後、その人が選んだ句を詠み上げていく。そ の度に誰彼となく、句についての高評が語られる。(自分の句が詠み上げられると、名のりを上げ、それを幹事が記録していく。)
 全てのメンバーの選が詠み上げられたら、いよいよ集計して結果発表。
 その日の一番多く指示された句、つまりその日の一等の句と、一番総合点の良かった人が発表される。
 とまあ、こんな調子で句会はすすんでいったように記憶している。

 さあ、ここからが母と私と姉の3人にとって一番大変な時間。
準備された簡単な料理と酒が出る。忘年会を兼ねていたこともあったのだろう、今の居酒屋程とはいかないが、普段とはちょっと違ったおいしそうな母の手作りの料理がテーブル毎に大皿に盛りつけられて運ばれる。ビールなんて出さない。とにかく日本酒である。飲みながら今日のそれぞれの句についての話があちこちで巻き起こる。酔ってくるとボルテージは上がっていき、笑い声が起こり、とにかく楽しい。みなさんが酒豪で、しかもほとんど何も食べずに飲む。日本酒を肴にして日本酒を飲むといった感じで、我々運び手は、酒が切れることのないように早め早めの手配に奔走する。大きな鍋の中に、熱燗の銚子が何本も並んでいる様は、なかなかの圧巻でもあった。姉と私の酒運び部隊は、その場しか居場所がないこともあって、真っ赤な顔をした父のそばで時々料理に手をつけながら、理解もできないいろんな人のやりとりを同じ空間で味わっていた。トロフィーや賞状があるわけではないが、何時間もかけて創った自分の句へのこだわりが認められたことが、なにものにも変えがたい酒の肴だったに違いない。
 今のように、コピーとワープロが無い時代のこと、父が格闘した作句の跡は残っておらず、何冊かの句帳と自費出版した2冊の句集が残っているだけである。父が残した2冊の句集に目を通すと、あの頃の父の姿と、楽しそうに語り合う俳句会の様子が浮かんでくる。
あのときの子ども心に感じたうらやましさは何だったのだろう。趣味に生き、同じ志を持った者と酒を酌み交わし、語り合う、そこにはそれぞれのもつ感性や人間味があふれていたそんな仲間に囲まれていた父の姿なのだろう。
 自分は俳句をたしなむような粋な部分はもっていないが、俳句会の思い出は、2冊の句集と共に私の宝ものである。大事にしていきたい。


自分だけのシンフォニー

思い

人生は、壮大な交響曲(シンフォニー)

  穏やかなだけではつまらない
    きれいなだけではものたりない
       アレグロだけではせわしすぎる
    ましてや、人まねだけではさみしい

  決して、美しいメロディーでなくていい
      きれいな音色でなくていい
    ましてや、背伸びする必要など・・・・・・・

  まだまだ未熟な自分であろうと
   自分を精一杯表現しようとする真剣な姿が、
   自分のもてる全てで奏でようとする姿が、
             人々に感動を与える

  自分だけのシンフォニー
  今一つの区切りを迎え、次の楽章へと向かう…
                 北 川 博 規


合唱完成への道程(4段階8ステップ)

思い

下に掲げたのは、学級の合唱が完成していくまでの大きな流れです。この流れの中で、大きな山が3つあります。それは、ステップ1~2、3~4、そして、6~7です。この3つの山をいつ、どのような形で乗り切っていくかが、その学級の力になっていくのだと思います。
けっしてニッコリ笑ってばかりではいかないはずです。まずは、最初の山を乗り越えることです。

全体の状況 各自の状況 合唱
1 合唱の練習と言っても、ただ何となく時間が過ぎていく。
数名の者だけがいらだちを感じているものの、まだ指揮者すら指示ができない。伴奏者にとってつらい時期である。
テープのダビングが終了せず、自分のパートがほとんど分からず、歌詞すら覚えていない。 心細さを感じる声で数名の声だけが飛び出して聞こえてくる途中で歌が止まってしまうことも多い。
2 パートリーダーが徐々に自覚を感じ始め、パートリーダーはほぼ自分のパートをつかむことができる。指揮者は全曲を通して何となく指揮ができるようになる。 音楽の授業に前向きなものが感じられてくる。自分のことで精一杯ではあるが、何となくパートのメロディが見え始め、歌詞の内容が分かってくる。家でもテープを聞く回数が増えてくる。 歌いやすい部分の声には、やや張りが出始める。しかし、まだ歌いにくい部分になると、人任せになり、合唱にはならない。
3 パートリーダー、指揮者が指示ができるようになり、全体として練習に動きが見られるようになる。まだ数名がしらけた態度を見せるが、練習に充実感が徐々に表れてくる。 楽譜を見ながら、または周りに助けられながら、自分のパートを歌うことができる。メロディーをつかむことに全神経を費やしている。 曲の大半をある程度楽譜通りに歌うことができる。 しかし、自分たちの合唱に幻滅を感じる者が出てくる。
4 合唱に対する意識がかなり高くなると同時に、自分たちは今の状態ではダメだという危機感が生まれてくる。それを振り払おうとひたすら歌う。表情には張りつめたものが感じられるようになる。 自分も歌いたいという気持ちが強くなり、音楽の時間の雰囲気が変わってくる。
自分のパートのメロディーが分かり、歌うことは徐々に楽しくなってくる。
男女どちらかがグーンとレベルアップする。合唱らしい響きが感じられるようになる。
5 学級が一つの目標に向かっているのをほとんどの者が感じる。
指揮者の存在がグーンと大きくなり、指揮者の一番苦しい時を迎える。
自分以外のパートにも気を配ることができる。と同時に、いいかげんな意識の者に対して、憤りを感じる。 まだ安定しないものの、迫力のある合唱が時々できるようになる。
6 学級の中に仲間意識が芽生え、真剣な仲間の姿に心を打たれる時である。徐々に意欲が沸いてくる。 かなり自信を持って歌うことができるようになる。と同時に、聞いている人を意識するようになる。 徐々に安定し、曲に変化が付けられるようになる。
7 練習全体に活気があふれ、自分たちは絶対に歌えるという自信がわいてくる。しかし、賞が気にかかり、他の学級が気になる時でもある。 とにかく合唱が楽しく、歌うことが待ち遠しくなる。
指揮者から目が離れなくなる。
自分たちの合唱に、何かしら感動を覚える。
8 みんなが一つになっているのを全員が感じる。賞なんて関係ないと感じるようになる。
まさに「学級」である。
何も考えず、音楽の中に浸っている。指揮者が大きく見えてくる。 合唱(音楽)が一人で動き始める。
聴衆と一体となる。

『雨だれ(=点滴)石を穿(うが)つ』

思い

という言葉を知っているでしょうか。
「穿つ」というのは、穴をあける・つきぬく という意味です。

 つまり、「一滴ではなんの力もないように見える雨だれでも、何万回・何億回と同じ所に落ちていたならば、長い間には、自然の石にさえ穴をあけてしまう。」 つまり
 「小さなことでも、長い間続けていくことで、最後には大きな形になっていく」という意味です。

 ここで言う『雨だれ』は、もちろん「努力」であり「真面目な生き方」を表しているのは、明らかです。

 皆さんが迎える37日間の夏休みはもちろん、これからの生活の中で、自分に必要な自分だけの「雨だれ」を大切にして下さい。
 それは必ず、形のある成果となって表れて来るはずです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで、話を閉じれば、夏休み中もいろいろなことに誠実に着実に努力していきましょう。というメッセージとして終わるのでしょうが、今日は、もう少し話を続けたいと思います。

『雨だれ(=点滴)石を穿(うが)つ』 が、「小さなことでも、長い間続けていくことで、最後には大きな形になっていく」という意味を持っているのならば、その雨だれは、決していいことばかりではないような気がしてなりません。

もしも、「雨だれ」が「だらしない気ままな生活」だったならばどうでしょう。それは自分自身の心を穿つものになりかねません。
もしも、「雨だれ」が「小さな万引き」だったらどうでしょう。将来に人生を大きく穿つものになりかねません。
 そして、小さな暴力」だったら、・・・・・・
 「相手を傷つける心ない何気ない言葉やいじめ」だったらどうでしょう。
 それらは、知らないうちに今度は「人の心を」「仲間」を穿つものになってしまうに違いないのです。それは、石でなく、間違いなく「人」であるのです。

 そう考えると、雨だれの「強さ」と「怖さ」を感じざるを得ません。


今、一つの楽章を終えるにあたり

思い

 「1点だけでは平面は決まらない。2点でも揺らぐ。3点が存在して始めて一つの平面は決定し、安定する。」と数学の空間図形で学びますが、「家庭・地域・学校」の関係と共通しているように思われます。「家庭・地域・学校」という3者の上に広がる平面は、まさに子どもたちの生活する地域社会そのものであるのでしょう。いずれかが縮こまったり、肥大してしまったりすると、とたんに平面は傾き、その上で生活する子どもたちは斜面から滑り落ちないように、身体を強ばらせなければならなくなるに違いありません。
 この場合の「点が決まる」が意味するのは何なのでしょう。それは子どもの躾や教育に関して価値観が同じ方向を向いていることであり、先入観を持たずに「よいことはよい」「いけないことはいけない」と判断する『ものさし』が同じであることのような気がします。その上で表れた誤差を微調整しながら、それぞれが同じ大きさで育っていく必要があるのでしょう。
 そして今、4つめの点(時には5つめの点)の存在を感じることが多くなりました。4つの点が存在するとき、それらを一つの平面に乗せていくことは、大変難しい問題となるのは言うまでもありません。それは「その中のどの3点で平面をつくるのかという選択」であり、「そこでできあがる平面に4つめの点をいかに乗せるのか」苦しまなければなりません。点が増えればそれだけ慎重な姿勢と共通理解のための時間が必要となるのです。
そのための一つの術は、それぞれが互いにリスペクトして積極的に関わり、自己肯定感を高め合う関係になっていくことです。頑張りを認めつつ、切磋琢磨していく「よい緊張感」を持った関係をさらに強化していくことこそ、今求められる姿なのだと思います。
 毎日の学校の中でいろんな子どもたちの表情に出逢います。キラキラ輝いた眼やはつらつとした表情に出逢うと、こちらまで嬉しくなります。逆に、険しい表情やどんよりとした表情には心配や不安を感じてしまいます。いろいろな生活の中で、晴れたり曇ったりするのは思春期の姿ですし、感性をもっている人間であるが故に、その年齢に応じた心の揺れがあるのは当然です。
 私たちが求めているものは、子どもたちの成長であるのは言うまでもありません。ほとんどの動物は、骨格が大きくなり、体つきが完成していくことを成長ととらえます。しかし、人間の成長は身体が大きくなり、生育年齢が高くなっていくだけではないのは確かです。ある人は体力がつくことが成長だと言うでしょう。知力や学力、道徳心や思考力・判断力がつくことだという人もいるに違いありません。確かにそれら全てが成長に欠かせないものです。でも私は、それらに加えて、心の揺れを自らの中で調整していく力と揺れに負けない強さを身につけていくこと、「折れない術」を身につけていくことの大切さを思います。子どもたちは、その力を身近なモデルから学び、いろいろな支えの中で身につけていきます。そのモデルや支えが求められているのだと考えます。
 改めて、支え合い、力を一つにして取り組むことの大切さを感じています。

 教職について37年が過ぎようとしています。
もしも、その間に「その頃と比べて変わったもの」を尋ねられたら、実に多くのものが思い浮かびますが、「今も変わらない素晴らしいもの」を尋ねられたら、私は、「子供たちの本質的に持っている健気(けなげ)な姿だ」と答えます。そんな姿に人一倍多く出会い、たくさんの感動とエネルギーをもらったことをとてもありがたく思っています。

もしも、「教師として何が一番印象深いか」と尋ねられたら、私は、「いろんな涙に出会ったこと」と答えます。これまでいろいろな涙に出会いました。
哀しい涙もあれば、喜びの涙、感動の涙もありました。悔し涙も、傷ついて苦い涙も笑顔に似合う涙もあったように思います。どの涙も、大きな心の揺れが背景に在りました。どの涙も周りの心をも揺らしました。

 昔から、自分はなんて幸せな人間なんだと感じてきましたし、機会ある度にそう語ってきました。というのも、私の周りはいい人ばかりだったし、出会ったすべての人から多くのことを教えていただきました。それが先輩や同僚のこともあるし、時には生徒や部活動の部員でした。そのおかげで、今があります。心から感謝しています。
 粟野中学校での3年間、そして、この37年間 本当にありがとうございました。

 卒業にあたり、私は、毎年同じ詩を贈っています。
 そして、今 この詩を自分自身でも噛みしめたいと思います。
 
自分だけのシンフォニー

人生は、壮大な交響曲(シンフォニー)

  穏やかなだけではつまらない
    きれいなだけではもの足りない
      アレグロだけではせわしすぎる
    ましてや、人まねだけではさみしい

  決して、美しいメロディーでなくていい
      きれいな音色でなくていい
    ましてや、背伸びする必要など・・・・・・・

  まだまだ未熟な自分であろうと
   自分を精一杯表現しようとする真剣な姿が、
   自分のもてる全てで奏でようとする姿が、
             人々に感動を与える

  自分だけのシンフォニー
  今一つの区切りを迎え、次の楽章へと向かう…

        平成二十七年三月吉日
                  北 川 博 規


阿吽の呼吸

思い

 先日見かけた光景が心地よい余韻と共に今も心に残っている。
 それは日曜のお昼何気なく入ったそば屋さんでのことだった。私たちの隣に、一組の家族が座った。若い夫婦とベビーカーに寝かされたまだ生後3ヶ月くらいの赤ん坊、そして母親の両親と思われる男女だった。隣のものだからその気はないのだが、自然と雰囲気が伝わってくる。注文した料理を待っている間も、会話の中心はもちろん赤ん坊のことのようで、みんなに大事にされていることが言葉の端々から伝わってくる、ほほえましい家族だった。
 ちょっと長めの時間が過ぎ、やっと料理が到着。赤ん坊が寝ている内に食べてしまおうとみんなが箸をとった瞬間。それまで寝ていた赤ん坊が愚図りだした。箸を片手に、ベビーカーをちょっと動かしてあやしはするものの、ふゃふゃした声は、やがて泣き声に変わっていった。どう見てもだっこをせがんでいる。近くにいた私たちもが、「赤ん坊が抱き上げてあやしてくれることをせがんでいること」と「もうあと少し静かに寝ていてくれたら、みんな食べれただろうに・・」と子どもを育てたことのある者なら誰もが経験している「さあどうするタイム」に気の毒感を抱いた。しかし、そのときの若いお母さんの言葉に心が動かされた。
 その母親は、すっと赤ん坊を抱き上げて、一旦静かにさせた後、左手に赤ん坊を抱きかかえるとその子をのぞき込んでこう言った「私、片手でも平気で食べれるからねー。大丈夫だよー。」そして、普通に食事を始めた。それでも麺類は何とかなっても一緒についてきたご飯ものはちょっと片手で厳しいのは誰が見ても明らかだった。この若い母親の言葉。それは赤ん坊に向けて語りかけた言葉の体をなしてはいるが、十分すぎるほど周りに気を配った言葉だったのは間違いない。むずかる子への愚痴っぽさは微塵もないのはもちろんだが、その言葉に誰もがつい笑顔を漏らさずにはいられないほど、力みのない自然な明るい響きだった。
 その間、若い父親はというと、何も語らず、慌てたそぶりを見せず、しかし無駄のない流れでごく普通に食事を進めた。そして、自分の食事が一段落すると、これまた自然に赤ん坊を母親から自分の手に移し抱いてあやした。そのタイミングも見事だったし、それにちらっと返した母親の柔らかな笑顔もよかった。
 些細な出来事だった。しかし、この一連の若い夫婦の言葉と動きが、とても和やかな中、押しつけるでもなく、無理のない自然な流れの中で行われたことがとても印象に残っている。
 まさに「阿吽(あうん)の呼吸」と言うのだろう。簡単そうでなかなかできない。いい夫婦であり、いい両親だと感じた。
 いい勉強をさせてもらい、とても嬉しい気がした。


ふるさとの香り その1

思い

 昨年暮れのある日、松原公園を訪れる機会があった。身近にありながら、最近は足を運ぶことも少なくなったことを詫びながら、ふらふらとのんびり静かな時間を過ごさせてもらった。冬場の松原は、夏のにぎやかさと対照的で、静かな中に波の音が耳に届いてくる。そんな波の音を、幼い頃耳にしたものと比べてみようと記憶をたぐり寄せていると、昔の松原公園が思い出されてきた。
 小学校の低学年の頃までだろうか、父や叔父に毎週のようにつれてきてもらった。ここには楽しみがいっぱいあった。
 まずは、着いたらすぐに走っていったのが、子供用のバッテリー自動車のところだった。アクセルらしきものを力一杯踏み込んでもさほどスピードに変化は出なかったし、ハンドルも左右60°くらいしか切れなかった。それでも自分の思いで車が方向を変えてくれることが嬉しくて、かなりの時間をここで過ごした。
 次は当時の私が一番大事にしていた「水族館」だった。大事という言葉は変なのだが、子ども心に神聖な場所なんだと感じていた。今風の水族館は、とても明るく造られているが、ここは違った。薄暗くて、壁面に照明の入った小さな水槽がいくつかあって、まるで神様の祀られている祠(ほこら)に漂う灯りのようだった。そんな水槽の中の隅っこに隠れている魚や海の生物を眺めることはもちろん楽しかったが、それ以上に、私を引きつけたのは中央にある大きな水槽だった。中には、ウミガメがゆったりと泳いでいた。それほど深くはないため、ウミガメの背中が水面に出たり引っ込んだり、大きさがどれだけだったのは定かではないが、当時の私にとっては、大きくてまさに海の主であり、神聖な生き物だった。縁に近づいてきたウミガメの甲羅に恐る恐る触ったときの重くて堅い、といってけっして無生物ではない感触は、そのときのドキドキ感と共に、今でも記憶に残っている。そして、檻が二つあった。一つは日本猿の檻。餌を与えてはいけないと言われても、檻の周りに落ちている野菜くずを拾って、猿の様子を窺いながら手を伸ばして投げ入れたものだった。もう一つは檻というよりも鳥小屋と言った方がいいのかもしれない。アヒルやガチョウが水浴びする場所や、白鳥(当時は白くて首が長い鳥は全て白鳥と認識していた)が飛べるくらいの相当に大きなスペースだった。
 こんな松原公園での時間は、いつもあっという間に過ぎていった
 当時は、ゲームがあるわけではなく、今のように車で手軽に出かけることもなかっただけに、松原公園へ連れて行ってもらうのは、相当に大きなプレゼントだった。派手な乗り物やアトラクションがあったわけではないのに、うきうきした時間だったのは何故だったのだろう。今思えば、そこに待っていたのが、命あるものとふれあう体験だったからなのだろう。
 あれから随分と様変わりした松原公園だが、波の音と海の香りは今も変わらない。
自分の記憶の中にある、そんな音や香りが思い出されたとき、自分がそれに包まれて育ったことを幸せに感じる。


三点支持

思い

Three-point support (三点支持)
~地域・家庭・学校の相互の自己肯定感アップ~

 「1点だけでは平面は決まらない。2点でも揺らぐ。3点が存在して始めて一つの平面は決定し、安定する。」と数学の空間図形で学びますが、「家庭・地域・学校」の関係と共通しているように思われます。「家庭・地域・学校」という3者の上に広がる平面は、まさに子どもたちの生活する地域社会そのものであるのでしょう。いずれかが縮こまったり、肥大してしまったりすると、とたんに平面は傾き、その上で生活する子どもたちは斜面から滑り落ちないように、身体を強ばらせなければならなくなるに違いありません。
 この場合の「点が決まる」が意味するのは何なのでしょう。それは子どもの躾や教育に関して価値観が同じ方向を向いていることであり、先入観を持たずに「よいことはよい」「いけないことはいけない」と判断する『ものさし』が同じであることのような気がします。その上で表れた誤差を微調整しながら、それぞれが同じ大きさで育っていく必要があるのでしょう。
 そのための一つの術は、それぞれが互いに関心をもって積極的に関わり、自己肯定感を高め合う関係になっていくことです。頑張りを認めつつ、切磋琢磨していく「よい緊張感」を持った関係をさらに強化していくことこそ、今求められる姿なのだと思います。
 この一年間を感謝しつつ、新しい年度に向けて、三点支持がさらに揺らぎのないものになるよう、努力していきたいと思います。さらなるご支援をお願いします。



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